投資とは関係ない雑談で今日はちらっと書いてみます。
(投資の話ではないですが)回答を待っている件があり、
その間に思ったことを書いている状況です。
※結局、思惑より30分も待たされた・・・
今日はちょっとしたことがあり、ちゃんとした記事までは行きませんでした。
昨日の夜なべした原稿はあるのですが、まだまとまってもいないですし・・・
(クラファン投資の記事ではないので、急いで出す内容でもないのもありますが)
というわけで、ちょっとばかし感じたことを書いてみます。
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思ったきっかけ的なところは書くほどの中身でもないので省略しますが、
今朝ちょっと思ったんですよね。
「あ~私もここにいる(駅です)みんなも、全員誰かの子どもなんだよなー。」と。
全員、お母さんから産まれたんだよなー。と。
まあ、もっと言えば、その前段階があっての「それ」なんだよなー。と。
更にもっと言えば、ここにいる女性たちの相当数はお子さんを産んでいるし、
逆にまた別の相当数はこの先10年後、20年後にお子さんを産むんだよな。とも。
そう考えると、生物ってすごいなと思いました。
そして私や妻やうちの子どもが生きていることも、
ある意味では奇跡的だなとも改めて思ったりして。
また別の時に思ったことですけど、
【結婚、出産って劇的だよな】みたいなことも最近思いました。
これは程々早い時間に寝られて、眠いけどバタンキューでもないくらいの時、
そんな感じの時の寝落ち寸前くらいの感じの時に思いました。
子どもって親の下に生まれてきて、何の疑問もなく親の下で育ちますよね。
この親と生きているのが生まれてこの方の日常です。
有体に言えば、一緒にいるのは奇跡でもなくほんと当たり前なことです。
(私は父親と折り合いが悪かった。
でも、それでもそこに本質的な疑問符は感じていなかった)
でも、かたや親の方は奇跡的な確率を何度も味わってるなと。
たまたま奇跡的にこの人と一緒になって、たまたまこの子どもが奇跡的に生まれて、
そういった人間関係の変化によって、この家とかここに住んでるなと。
(幼馴染との結婚とか、そのまま実家で同居とか、幼少期から日常が繋がっているパターンもあるでしょうけど、それだって環境変化はそれなりにありますよね。)
私に関してはほんと1ミリでも何かがずれてたら、
この家にはいないし、こうして日常を送ってないんだなと思うと、
この日常がこうして当たり前のように存在していることが逆に怖くなりました。
あの時、1ミリ違ったら、自分は何をしていたんだろう・・・と。
細い崖の道とか、グラグラの恐ろしい橋を渡り終わった後に、
逆に後ろを振り返って、心底渡っている最中よりも恐ろしい気持ちになるような心象とでも言えば分かりやすいでしょうか。
そんな気持ちになりました。
大らかに考えたら、また違う誰かと似たような暮らしをしていたかもしれませんし、子どもだっていたかもしれない。下手したら今より環境は良かった!?なんて。
まあ、私は今の家族が好きですし、これが自分の最高に近い結果とは基本的には思っているので今より良かったというのはあんまり考えづらいですが・・・
で、むしろ逆に恐ろしく考えると、かなり辛い人生だった可能性も充分あるよなと。
これはブログをやっていることもそうですし、それも以前も書きましたけど、
【何で、自分は今ここにこうしているんだろう?どうしてこうなったんだろう?】
みたいにたまに思います。
これは悪い意味でも良い意味でもなく、
【俺って誰?ほんとにこの人生は自分の人生?いつの間にか自分じゃない誰かの人生と人生チェンジしてない?脳みそは自分のままだけど身体と人生が誰かと入れ替わってない?】みたいな何か環境変化についていけていない気持ちになるという感じ。
それこそ妻なんかはもっと環境変化が大きいです。
全く縁もゆかりもなかった我が町に結婚して来てくれましたからね。
1ミリずれてたら、全く違う自治体にいたと思いますし。
奇跡的な確率で今の暮らしが出来ていることに感謝しないとなと思った。
という話でした。
そして、という何とも言葉に出来ない体験が出来たのは、
保守的で変化の乏しい人生を歩んでいた私にとっては結婚、出産のお陰でした。
という意味で、前の記事の繰り返しみたいな話ですが、
私は結婚して良かった。子どもがいて良かった。と思いました。
というわけで、明日以降、またいつも通りの記事が書けたら更新したいなと思います。
一応書いている途中の記事は2つストックがあるので、
どちらかをまとめられたら良いなーとは思っています。
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